殲滅のオリンピュア

オリンピックという競技は、もともと胡散臭いものだった。古代オリンピックは,ギリシアのオリュンピア(オリンピア)で,古代ギリシアの主神ゼウスにささげる祭典競技であったが、それはIOCのバッハ会長が要求して憚らぬ「生贄」sacrifice の精神に通ずるものだったかもしれぬ。

 

かつて参加できたのは、奴隷制の恩恵を受けた、自由市民の男子に限られていた。奴隷と女性は参加を禁じられていたのである。優勝者には,ゼウスの神木オリーブの枝で編んだ葉冠が与えられ,その彫像が聖域内に建てられた。

 

前2世紀以後,ローマの勢力が伸張するに従って,オリュンピア競技からもギリシア精神が失われ,競技に賞金がかけられたり,これを目当てとする職業競技者が横行したりして競技も衰退期に入る。さらに,ローマ帝国時代になると,皇帝ネロが聖域内に別荘を建て,みずから競技に参加するため,その日程の都合で,65年に行われるべき第211回の祭典をかってに67年に延期して伝統を乱すような末期的現象を呈するようになった。

かくてオリュンピアの祭典は腐敗の一途をたどり,392年にはテオドシウス1世が異教禁止令を出したので,この祭典も競技も翌393年の第293回をかぎりにいったん、消滅の憂き目を見たのである。

 

近代オリンピックの復活の経緯は、よく知られている。1896年,アテネ(ギリシア)で近代オリンピアードの幕を開けたオリンピックの歴史は,ギリシアの故事をしのんで初めて行ったマラソンの劇的効果で成功を収めたのだった。

 

だが,終了後第2代会長に就任した創始者クーベルタンは,1900年の第2回パリ大会で,たちまち苦難に遭遇した。クーベルタンの母国とはいえ,フランスでは官民ともにオリンピックへの理解が乏しく,クーベルタンの希望したオリンピック大会は,たまたまフランス政府主催で開催された万国博覧会のアトラクションとして行われ,オリンピックの独自性を発揮できなかったのであった。

 

オリンピックが博覧会のプログラムに編入されたことに失望したクーベルタンは,セント・ルイスに姿を見せず,オリンピック運動を活性化するため,〈オリンピックは永遠にギリシアで〉と熱望するギリシアの世論にもこたえて,06年4月,再びアテネで特別オリンピック大会を開催した。のちに IOC が,オリンピックの開催と並行して他の国際行事の開催を禁止する規定を設けたのは,パリとセント・ルイスの2回にわたる博覧会の苦い経験によるものであった。

 

第1回以来,大会に参加する資格は個人にもクラブにも与えられていたが,08年の第4回ロンドン大会から,参加する主体を NOC に限定し,個々の選手にイギリスで定めたアマチュア規定を適用することになり,ロンドン大会の開会式では,初めて各国の選手団がそれぞれ国名標識と国旗を先頭に入場行進を行った。そのためか,参加国のナショナリズムが早くもこの大会で激発し,イギリスとアメリカの選手団が互いに挑発してトラブルが絶えなかった。

 

そのため,会期中の特別ミサで,ペンシルベニア主教は〈このオリンピックでは,勝つことよりも参加したことに意義がある〉と戒めた。このことばをクーベルタンが修飾し,〈オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することである〉というオリンピックの格言になったのである。

 

だが、今日では、「ぼったくり男爵Baron Von Ripper―off ことバッハ会長やコーツ副会長らの「五輪貴族」に牛耳られているこの国際的イヴェントには、もはや新しい格言が必要なのではあるまいか。〈オリンピックで重要なことは参加することではなく、収益をあげることである〉というのがそれである。緊急事態宣言下での開催になろうが、日本人が何人死のうがIOCは責任を取らない。かれらは契約の履行を盾にとり、また、菅政権は利権への執着を隠そうとしない。

 

かくして、「死の五輪」が廻転しはじめる。政治-経済的な強者、権力のある者だけが金メダルを獲得できる、ネオリベラリズムの競技大会が、地獄への口を大きく開けようとしている。福島の復興予算を呑み込んで。コロナ対策の医療資源を食い荒らして。

 

かつて393年にオリンピュアの祭典が廃棄されたように、もはや近代オリンピックも、一世紀を経てその役目を終えたのではあるまいか? ふたたびこの腐敗した虚飾の祭典を廃止すべき時期が訪れているのではあるまいか?